北方諸国を揺るがす大事件……ではなく、ケィア・モルヘンの大広間で繰り広げられたのは、ウィッチャーたちの「旅の荷造り」を巡る不毛で熱い大論争でした。
経験豊富な老ウィッチャー・ヴェセミルと、機動力を最優先するシリ。二人の譲れない哲学が激突します!
始まりは「軽すぎる荷物」への一言
ケィア・モルヘンの大広間。石造りの冷たい床に、使い古された革の鞍袋が二つ転がっていた。
外は心地よい初秋の風が吹いているが、砦の内部には妙に張り詰めた空気が漂っている。暖炉の前では、ヴェセミルが眉間に深いシワを寄せ、腕組みをして仁王立ちしていた。その視線の先には、旅支度の荷物をテーブルの上に広げているシリの姿がある。
シリの手元にある荷物は、驚くほど小さかった。薄手の革袋ひとつと、水筒、そして腰に差す剣。それだけだ。
ヴェセミルが重々しく口を開いた。

おい、シリ。まさかとは思うが、明日の遠征の荷物はそれだけか?
シリは荷造りの手を止め、心外そうにヴェセミルを見上げた。

それだけって何よ。剣と水筒と、必要最低限の銀貨があれば十分でしょ。荷物なんて軽ければ軽いほどいいじゃない
ヴェセミルは深いため息をつき、頭を抱えた。

これだから近頃の若者は……。街道を舐めるな。予備の砥石はどこだ? 縫い針と頑丈な麻糸は? 湿気た火口箱の予備と、傷薬の調合素材はどうした

そんなの途中の村で調達すればいいでしょ! 重い荷物を抱えてたら、怪異に襲われたときに身動きが取れなくなるじゃない。スピードが一番の防御よ

北方諸国の平和を脅かす大事件ではない。
だが二人の視線が交錯する広間には、まるで王国の国境線を巡る交渉のような緊張感が生まれていた。
ヴェセミルにとって、旅の荷物はウィッチャーが生き残るための知恵そのものだった。数百年の経験が、あらゆる不測の事態に備えよと告げている。
一方のシリにとって、荷物は機動力を奪う重石に過ぎない。走って跳べば解決するというのが彼女の哲学だった。

途中の村だと? ヴェレンの沼地で野営するとき、針一本売ってくれる商人がいると思うか? 濡れた革鎧を直せぬまま夜を明かし、風邪をこじらせて死ぬのがオチだ

風邪くらいで死なないわよ! だいたいヴェセミルの荷物は重すぎるのよ。前回の遠征のとき、鞍袋に何が入ってたか知ってる? 予備の馬蹄が四つと、鉄鍋が二つよ。何日間の旅のつもりだったの?

鉄鍋は煮炊きだけでなく、夜間に頭上に被れば落石除けにもなるのだ
シリは呆れたように目を丸くした。

鍋を被って寝るウィッチャーなんて聞いたことないわ

生き残った奴が正しいのだ
ケィア・モルヘン式パッキング勝負の開幕
言葉の応酬では決着がつかないと悟ったのか、シリが不敵な笑みを浮かべた。

口で言ってても埒が明かないわね。いいわ、実際に荷造りをして、どっちが正しいか証明しましょ

望むところだ。老兵の備えというものを見せてやる
二人はケィア・モルヘンの備品庫からそれぞれの旅道具を持ち寄り、広間のテーブルに並べ始めた。制限時間は五分。一泊二日の怪物退治の野営を想定したパッキング勝負だ。
テーブルの上に並んだ「衝撃の中身」
シリは手際よく荷物をまとめ、あっという間に革袋を閉じた。
一方のヴェセミルは、棚の奥から次々と道具を引っ張り出している。狼流派の秘伝薬草束、予備の銀の鎖、防水加工された油布、携帯用研ぎ石セット、火打ち石三個、乾パン十日分、そしてなぜか特大の木槌。

……ちょっと、ヴェセミル。その木槌は何に使うの?

楔を打ち込むにも、怪異の頭を叩き割るにも使える万能道具だ

銀の剣があるでしょ!

刃こぼれを防ぐための節約だ。経験が足りんな
やがて二人の荷造りが完了した。
テーブルの上には、片手で軽々と持ち上がるシリの小袋と、大人の腰ほどまで積み上がったヴェセミルの巨大な荷鞍が鎮座している。
ヴェセミルは勝ち誇ったように言った。

見ろ、これぞ万全の備えだ。吹雪が来ようが、橋が崩落しようが、一週間は悠々と耐えられる

耐えられるかもしれないけど、それを持ったまま馬に乗れるの?
シリがヴェセミルの荷鞍を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。
試しに広場にあった練習用の木馬に載せてみると、メリメリと嫌な音を立てて木馬の脚が軋んだ。

ほら見てよ! 馬が腰を痛めて逃げ出すわよ!
ヴェセミルは咳払いをし、わずかに視線を泳がせた。

……馬の脚腰を鍛える良い訓練になる

苦しい言い訳ね。やっぱり私の身軽スタイルが正解よ
シリが得意げに自分の小袋を掲げたその時、ヴェセミルが鋭い目でその袋を指差した。

待て。シリよ、その袋に何を入れた? 剣の手入れ油すら入っていないように見えるが
シリは一瞬言葉に詰まり、袋を後ろに隠そうとした。

べ、別に……必要なものよ

見せてみろ
ヴェセミルが袋を取り上げ、中身をテーブルの上にぶちまけた。
転がり出てきたのは、ヴィジマの高級菓子店で買った日持ちのしない焼き菓子三袋と、ノヴィグラドの露店で見つけた怪しげな光るガラス玉、そして髪留めのリボンだった。
広間に完全な静寂が訪れた。


……シリよ

な、何よ。ヴェセミルおじさん…

この色とりどりの菓子とガラス玉は、街道で人狼に遭遇した際にどう役立つのか説明してもらおうか

甘いものは集中力を保つのに不可欠なの! それにこのガラス玉は……夜に光って綺麗だから野営のテンションが上がるでしょ!

テンションなどというふざけた理由で荷物の八割を埋めるな!
泥沼の論争と、通りすがりの白狼
結局、一方は重すぎて馬を潰しかけ、もう一方は生存用具がゼロでただの遠足気分だった。
二人が再び怒鳴り合いを始めたちょうどその時、中庭から戻ってきたゲラルトが広間の入口に現れた。両手に手入れ用のオイル瓶と乾パンの入った、程よい大きさの鞄を一つだけ提げている。
ゲラルトは散らばった焼き菓子と、木馬を軋ませている巨大な荷鞍を一瞥した。
そして短く息を吐いた。

……ローチに積めない荷物は全部置いていけ。それとシリ、その菓子は後で一つもらうぞ
そう言い残し、ゲラルトは静かに奥の部屋へ消えていった。
残された二人は顔を見合わせ、同時に小さく舌打ちをした。
おわりに
その夜、ケィア・モルヘンの食堂では、ヴェセミルが淹れた茶を飲みながら、シリの持ってきた焼き菓子を三人で均等に分ける姿が見られたという。
ちなみに、ヴェセミルの組み上げた巨大な荷鞍は、その後一週間ほど広間の隅で誰にも触られずに放置されていたそうだ。

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